SUGOI**IOGUS


鬼頭昭雄橘組(3-10)東京支部
2007年 ノーベル平和賞受賞
気象研究所気候研究部長
 本人談(2007/10/17 MLより)
   ノーベル平和賞といってもIPCCという機関がもらったので、
   ぼくは報告書作成に携わった大勢の著者の一人にすぎません。
   文字通り他人事という感じ。
  金曜の夜に電話取材を受けたので、土曜の新聞に名前が出ましたけど。
  読売新聞社には写真もメールで送ったけど、それは載らなかったよね?

  ところで、この機関は「気候変動に関する政府間パネル」というもので、
  1990年、1995年、2001年、そして今回の2007年と計 4回、
  過去の気候変化とそれについて人間活動がどう関わってきたか、
  今世紀の気候はどうなるか、その影響は、その対策は、について
  まとめてきました。
  京都議定書やポスト京都を決めるときの科学的背景を与えているという
  ことでしょうか。


百武 宏之徳田組(3ー5)横浜支部
2002年 100kmウルトラマラソン完走 11時間44分
マラソン大会で第一位
 本人談(100kmウルトラマラソン完走)
  富永君より既に報告がありましたように、100kmのウルトラマラソンに
  参加してきました。富永君の記録には遠く及ばず、11時間44分のゴール
  でしたが、一応最後まで走りとおした完走でした。前の週には雪が降ったと
  いう道東の地が当日は最高気温で30℃を越す暑さで、頭から水をかぶり
  ながらの長い長い100kmでした。最後は足が棒で座ることもままならない
  有様。介添え役に妻を同伴して大助かりでした。3日経った今でも足が痛い。

  自分としては体力の限界に挑戦するつもりで、それなりに準備をし、それでも
  距離に対する不安を抱えて臨んだ大会ですが、2000人の参加者がいとも
  簡単に何度も完走しているのを目の当たりにして、肩透かしを食った感じ。
  特に女性が結構多く、男性がだらしなく歩いている横を颯爽と駆け抜けていく
  様は日本の女は強しの印象を強くしました。それでも完走率60%はやはり
  過酷というべきでしょうか。

 本人談 (マラソン大会で第一位)
   10月9日に開催されたちょっとマイナーなマラソン大会の10kmの部で生まれて初めて
   優勝しました。
   この大会は白井貴子も参加した国際協力フェスティバル(at日比谷公園)の一貫として
   チャリティーランとして企画されたもので、一周5kmの皇居の周りを2周するものです。
   参加者は約100名ほどでしょうか。
   タイムは40分40秒と優勝出来るレベルではないのでが、たまたまラッキーなことに、
   10kmの部の参加者に速いひとがおらず、テープを切ることが出来ました。長年やっていると
   こういうこともあるのですね。益々はまりそうです。
   日比谷公園の野外音楽堂のステージで表彰式があり、優勝インビューまで受けてしまいました。
   副賞はバングラディシュの民芸品とかちょっとがっかりでしが...
 
   家族は前日檜洞丸という丹沢の山登りで7時間も歩いて、動けないといって同行せず、
   折角の勇姿を見せられずでした。



冨永 正治徳田組(3ー5)大阪支部
2002年 100kmウルトラマラソン完走 9時間21分58秒
5000mベスト記録 15分23秒
初マラソン21才 第6回京都マラソン 2時間57分
マラソンベスト記録 第7回京都マラソン 2時間41分41秒
28才 ホノルルマラソン 2時間48分
マラソン出場回数 14回 うち完走14回サブスリー8回
もっとも遅い記録 3時間18分
最近の好記録 平成10年泉州国際 2時間51分03秒
 本人談  (100kmウルトラマラソン完走)
  6/30、北海道サロマ湖の周囲で100kmウルトラマラソンがあり、めでたく完走
  しました。タイムは9時間21分58秒でした。
  快晴微風で気温25℃以上と暑かったけれど、過去のこの大会では10℃以下とか昨
  年のように30℃を越えたことがあったので、それらと比べるとまずまずのコンディ
  ションでした。前半はルンルンランで、42、195kmの通過は3時間33分台、5
  0kmは4時間14分台で通過し、この調子なら楽々9時間を切って田辺走ろう会の
  新記録達成と思ったのですが、それからが悲惨でした。後半はがっくりペースが落
  ち、我慢我慢のランでした。それにしても長かった。ただひたすら1km毎の距離表
  示を追いかけるだけでした。80kmからは有名な原生花園ですが、そこからがまた
  長い。お花畑を眺める余裕は全くなし。ああこれで完走出来ると実感できたのは、あ
  と4kmの表示が見えてからでした。とにかくしんどいしんどい、長い長いウルトラ
  でしたが、地元挙げての声援とサポートがゴールまで後押ししてくれました。後半水
  を飲みすぎて体が水を受け付けなくなった時、エイドステーションで食べたスイカの
  味は忘れられません。
 本人談
   大学でクラブを熱心にやっても卒業後やめてしまう人が多い中、未だに走り続けています。
   学生時代、もう一つの運動(学生運動)にも熱心で、走る方が中途半端だったからかもしれません。

   初マラソンは21才の第6回京都マラソンでした。そのころは今と違ってマラソン人口は
   ごく少なく、誰でも走れる大会はほとんどありませんでした。京都マラソンも今でいう
   エリートマラソン大会で、40kmの関門が2時間45分という厳しさでした。出場者も
   250人程度でした。この時はハーフを1時間18分でクリアしましたが、その後ヨレヨレで、
   30kmからは歩いてしまいました。それでも前半の貯金が効いて40kmの関門を最後尾で
   クリアし、結局2時間57分でゴールすることができました。   

   結婚の前年に28才でホノルルマラソンを走りました。日本人が1万5000人、全体で
   3万人(最近ちょっと減ったかもしれませんが)の昨今と違い、日本人参加者が500人足らず、
   全体でも7000人の時代で、当時はホノルルマラソンも希少価値がありました。
   会社で組合がこのためにユニフォームを作ってくれたり、社内報に載ったりと、
   ちょっとした有名人でした。その後会社からも多くの人がホノルルに挑戦しましたが、
   このような扱いを受けたのは、私が最初で最後でした。

   思い出深いのは、5年前に走った富士登山競争です。麓の富士吉田市役所
   (標高700m)をスタート地点として、山頂まで一気に駆け登ります。距離は21kmで
   それほどでもありませんが、なにしろ標高差3,000mです。さすがに肥満体で運動靴を
   はいたh素人さんはひとりもいませんでした。冷やかしで走るには、ちょっとシリアス過ぎます。
   記録は3時間39分29秒で、出場1,706人中124位でした。ちなみに完走者は
   818人と少ない(完走率48%)のですが、これはゴールさせてもらえた人の人数です。
   この大会に「命賭けてるんや」と言う顔をした人ばかりです。ほっとけば全員山頂まで
   たどり着くでしょう。でも帰りは自力で5合目まで降りてきて下山バスに乗らねばなりません。
   バスは3時が最終です。主催者としてはいつまでも走らせておけないので、途中非常に
   厳しい関門を設定しているのです。半分以上の人が泣く泣く途中リタイヤを余儀なくさせられた
   というわけです。       

   よく、「なんで走るの?」という質問を受けますが、私の場合は、せっかくここまで
   作り上げてきた体を元に戻すのはもったいない、という気持ちが大きい。走り続けていると
   以前は苦しかったコースを、もっと早いスピードでしかも楽に走れるようになり、もっと長い
   距離でもヘッチャラになってきます。続けていると、いわゆるランニングハイも感じることが
   できるようになってきます。これはかなりのスピードでも全然しんどくなく、このまま
   どこまでも走って行けるのではないかと思えるくらい気持ちがいいのです。一説には、小脳から
   モルフィネ類似のベータエンドルフィンと言うホルモンが分泌して、ランニングハイを感じさせる
   と言われています。努力の結果が記録という形ではっきり示されるのもランニングの
   いいところです。 

   というわけで、今日も32kmのコースを走ってきました。